☆戦後80年に寄せて

今回は武道のお話ではありません。

毎年8月15日が近づくと、戦争関連の記事なりを多く目に致します。

今年は終戦後80年にあたり、当時10歳の少年少女は今年90歳になります。1948年(昭和23年)2月の調査によると、戦争により両親又は片親を亡くし住む所のない家なき子の全国の推定数は123,500人で、彼らの多くは戦争孤児、浮浪児と呼ばれ、極限的飢餓の中人間の本性と醜さがぶつかり合い暴力が支配する街をうろつき、盗みなどを働き今日の食にようやくありつける状況でした。

東京では、上野駅の地下街に多くの戦争孤児が巣くい、度々国の施策による浮浪児狩りにあい施設に収容されていました。私も昭和30年代前半の上野の地下街を薄ら覚えていますが、薄暗く、すえた匂いのする地下道には一般の人に混じり浮浪者、傷痍軍人や酔っ払いが結構いました。今の地下街からはとても想像できません。

今日は浮浪児を収容する施設で働いていた職員の方が書かれたお話です。

その施設は世田谷に在り、十歳から十六歳の少年少女約80名を収容していましたが、施設では十分食料を支給出来ず、一人で生きる術を知っている子供達は直ぐ逃げ出し、又捕まり戻される、いたちごっこを繰り返していました。

収容者で十四歳になる雅人君は、空襲で父親を亡くし、母親とははぐれ、そのまま母の消息は分かりません。

彼は地下道時代かっぱらい等で稼ぎ、寄席通いで覚えた噺家の口調を真似、周囲を笑わせる朗らかな少年でしたが母親の事は決して口にしませんでした。

丸二年ほど経ったある日、母親が突然施設を訪ねてきました。母親は空襲の夜恐ろしさで精神に異常をきたし、記憶喪失になってしまい病院に保護され、漸く記憶が戻り子供に会いに来た訳です。

しかし雅人君は、噺家口調で「いけやせんよそりゃ、殺生でござんすよ。いまさらそんなチョボイチな、しゃれにもなりゃせんよ」と言って頑として母親と会おうとしません。最後は無理矢理会わされますが、その時彼は母の顔を見るなり、抱きついて行ったそうです。

この時の彼の心情は分かります。これから一人で生き抜く為に心の中で無理矢理母親を死んだものと決め、漸くその決心に慣れ、自身で折り合いをつけた頃突然母が現れたのでは、十四歳の彼としてはどうしていいか混乱したに違いありません。これも人間の本質だと思います。

1948年はイスラエル建国の年です。今ガザでは空爆により多くの人が亡くなり、飢餓状態が続いています。そこでは第二、第三の雅人君が居てもおかしくありません。

以上